Since 2004/9/30 Last Updated 2006/6/14
新しい外国語を学び始めるとき、英和辞典、仏和辞典、中日辞典、韓日辞典のような外国語→日本語辞典と、和英辞典、和仏辞典、日中辞典、日韓辞典のような日本語→外国語辞典と、どちらが先に必要になるだろうか。 いや、これじゃ、日本語がからまない辞典がどっちにも入らないな。 たとえばサンスクリット→英語辞典は前者、英語→サンスクリット辞典はもちろん後者に分類したいわけである。 うーむ、これってなんか的確な言葉ってないのかな? つまり、これから勉強する未知言語を、自分の知っている既知言語に直す辞典と、その逆の、既知言語を未知言語に直す辞典と、どちらが先に必要になるかってわけであって…… とりあえずしばらくは、前者を「読解辞典」、後者を「作文辞典」と呼ぶことにしよう。たとえばサンスクリット→英語辞典は「読解辞典」、英語→サンスクリット辞典は「作文辞典」だ。 さあ、改めて問おう。 新しい外国語を学び始めるとき、読解辞典と作文辞典と、どちらが先に必要になるだろうか。 答えは、作文辞典です。 つまり、英和辞典より先に和英辞典のほうが必要だってわけです。 英語を勉強しはじめたときのことを思い返してみよう。身の回りのいろいろなものについて、「これって英語でなんていうんだろう」という疑問が、次から次へとわいてこなかったろうか? 未知の言語が飛び交う中にいきなり放り込まれて、「こいつら何て言ってるの? これって何が書いてあるの?」という解読の必要にせまられて外国語を勉強し始めるんならともかく、そんなことでもなければ、素人のさしあたりの興味は、身の回りのいろいろなものを、その言語で何て言うのかなっていうことなんだよね。 こう考えてみると、「まずは解釈辞典をそろえるのが先、作文辞典は後になってからでよい」という世間の常識は、逆なんだ。サンスクリットの場合なら、サンスクリット→英語辞典なんかよりも、英語→サンスクリット辞典のほうが先に必要になっちゃうんじゃないかというわけです。 と、ここまでは半分冗談で書きました。 このサイトを立ち上げる前に、先輩諸氏のサンスクリット・サイトの掲示板をいろいろ見ましたが、「×××って、サンスクリットでなんていうんですか?」って質問、実に多いよね。 そういう質問に応対するためには、サンスクリット→英語辞典より、まずは英語→サンスクリット辞典をそろえなきゃ、なんて思ったもんです。 なんでみんなはそういう質問してくるんだろう? たぶん、サークル、グループ、会社、ペットなんかの名前をつけるときに、サンスクリットの名前をつけると神秘的で高尚な知性の香りがしてカッコよさそうだって、思うんだろうね。それでそういう質問をしてくるってわけだ。図星でしょ? その気持ちはわからんでもない。何しろ私だって、「まんどぅーか」と名のるにあたって、「カエルってサンスクリットでなんていうんだろう?」と思って、モニエルの英梵辞典でfrogってひきましたよ。、、、、……(念のため但し書きすると、モニエルの英梵辞典で名詞は単数主格形で載ってますんで、で終わるものはが最後につくわけです)いろいろあるのねぇ。18個も載ってます。さらにメスガエルが2個。そういう中から、語感がよさそうだっていうのと、ウルドゥー語/ヒンディー語のサイトも併設したかったんで、ウルドゥー語/ヒンディー語のとも共通する語という観点で、まんどぅーかというのを選んだってわけです。 だから「×××ってサンスクリットでなんていうの?」と質問してくる人の気持ちはわからんでもないし、当人にとってはそれは切実なんだろうけど、辟易するのは、そういう人のほとんどが、なんでそれが知りたいのか、その事情を全然書かずに、いきまり質問だけぶつけてくるってこと。サンスクリットは歴史のある言語なんで、同じ一つのことについて、こうも言う、ああも言うって、同義語がやたらに多いわけです。たかがカエルで20個もあるんだもんね。そんな中から「発音しやすいもの。現代語でも使うもの」とか、いろいろ条件を指定してくれないと、到底選べないわけです。 なによりまず、それを何に使うのか、そういう質問動機を書いてほしいよなぁ。そうすりゃこっちも興味がわいて、じゃ一肌脱いでいろいろ調べてあげようって気にもなるし、それだけ的確な答えを返してあげられるかもしれないわけだけど、そういうのが全然ないからね。 だからついついこっちも、そういう質問投稿をうざったく思って、邪険な応対をしてしまうってわけです。 「まんどぅーかは学力がないからそういう質問に答えられないんだ。だから『質問投稿お断り』なんて言うんだよ」……はい。その通りです。そうとっていただいて結構です。実際に学力がありません。あたってます。そりゃそうなんだけど、質問投稿の多くが、答えを出す努力を失わせるものだってことも、知ってくださいな。 あとは、そういう質問に少なからずあるのは、その「梵語への翻訳依頼文」が、学研のオカルト雑誌「ムー」が好んで取り上げそうな、神秘だの霊感だのその手の「いっちゃってる」言葉を連ねてたりするってことです。人々がサンスクリットに何を求めているかがわかる気がして、それはそれで興味深いんですが、はたしてそういう単語をサンスクリットに翻訳して、どれだけの意味があるんだろう? インド人が見て非常に奇妙なものにならないかっていう疑念がわいてしょうがないんですね。 こういう例をあげるとわかりやすいでしょうか。 あるイスラム圏の国に、「東の神秘の国の言語」日本語に思い入れをしている変わり者がいたとします。この人は食料品店を経営しており、イスラム圏ですから、当然イスラム教で許された食品、いわゆるハラル・フードを扱っています。そこで彼は「ハラル・フードっていうのを日本語にして、それを自分の店の新しい名前にしよう」と考え、あなたに質問してきたとします。どう答えますか? 「ハラル・フード」に対応する日本語なんてありませんから、答えに困るでしょう? もちろん「イスラム教で食べるのを許されている食品」とかいう、説明的な言い方をしていいのであれば、いくらでも表現することが可能です。その意味では「××は○○語では表現できない」っていうものは存在しない。回りくどい言い方になってもいいのであれば、その気になれば、何だって表現できるわけです。だけど、こういう回りくどい説明的な表現は、店の名前には向かないですね。 日本でこれに近い言葉は「精進料理」かな? だけどさすがにこれは不適切ですよね。 いっそ「回教食品」って新語でも作ってみましょうか。ちょうどこの文の冒頭で私が「読解辞典」「作文辞典」なんて言葉を作ったように。これは一応日本語だけど、初めてこれを目にするほとんどすべての日本人にとって、意味不明な日本語ですよね。そんなのが果たして正しい翻訳といえるでしょうか。 私は、「××ってサンスクリットでなんていうんですか?」と質問する人の多くが、このような「ハラル・フードって日本語でなんていうんですか?」式の質問をしている気がしてなりません。日本語で表現できるものはサンスクリットでも表現できるはずだ、この世のすべての概念はサンスクリットで表現できるはずだ、と信じて疑わないことに、たいへんな苛立ちを覚えます。 ほら、日本語では虹の色は七色だけどドイツ語じゃ五色だとか、英語のlipって、口の周りの赤い部分だけじゃなくてクチヒゲの生えるあたりまで指すとか、この世の事物を分類して認識する仕方が言語によって違うっていう話を聞いたことないですか? ひょっとしたらカエルとカメの区別のない言語だってあるかもしれませんよ。外国語を勉強する楽しみって、まさに、異なる分類の仕方、認識の仕方を知ることじゃないの? そんな中で「日本語→外国語の翻訳」を行うのは、その外国語を話す相手とのコミュニケーション上、仕方なくやることであって、往々にしてその翻訳というのは困難だったり、回りくどい説明的なものになったりするわけです。カエルという言葉がなかったり、カエルとカメの区別のない言語を話す人に、カエルをどう訳して説明するかを考えてみてください。 だからこそ、語学の勉強では「解釈辞典」が先、「作文辞典」が後なんですよ。素人はまず「××ってサンスクリットでどういうの?」と「作文」をしたがるけど、まずはその言語の大海の中に飛び込むのが先であって、その中で自分の表現したいことをどう表現するかを考えるべきだというわけです。 私だったら、そういう名付けをするときは、すでにサンスクリットで書かれている古典の中から、なんか適当な言葉を探す努力をしますけどね。そのほうがはるかにサンスクリット的、インド的な、由緒ある名前になりませんか? 以上、大変長くなりましたが、これが私の「名付け親になることを拒否している理由」、つまり「×××って何ていうんですか式の作文質問を拒否している理由」です。わかってもらえたかなぁ? わかってくれなくてもいいけどね。 |