Since 2006/10/6 Last Updated 2006/10/6
前回書いたように、漢文つまり文語中国語を音読によって読解する練習のできる適切な参考書は存在しない。まったくないわけではないのだが、漢詩や漢文を朗読したCDをつけているというレベルにとどまっており、音読してその先どうするのかという読解の方法論を具体的に示して練習させるような本はない。 おそらく、いま中国語を教えている先生方は漢文が苦手で漢文読解の方法論を教えられないのだろう。もしくは訓読の方法で漢文を教えられてきたので、音読と漢文読解とがリンクしておらず、音読が単に「儀式」で終わっており頭の中では実はこっそり訓読をしているのだろう。大学で中国語を専攻している学生も、漢文の読解法は教えてもらえないので、『漢文入門』のような訓読教材で自習している学生が多いようである。 一方、中国や台湾ではさまざまな文語読解教材が出ているが、いかんせん中国語のネイティブを対象に書かれているため、われわれ外国人には真にかゆいところに手の届く教材になっていない。ちょうど、日本人のための古文教材が、日本人にとって自明な日本語の特徴の説明をそっくり省略しているので、外国人にとっていまいちピンとこないところがあるようなものである。 漢文の適切な教材が日本や中国にないのは、そんなところが理由だろう。 しかし漢文をまったくの外国語として学ぶ欧米にはありそうだ。欧米人は漢文訓読などするはずがなく、当然音読して読解するはずである。そのいっぽうで中国語のネイティブスピーカーではないのだから、中国人にとって当たり前の基本事項(であるがゆえに中国で出ている参考書にはハッキリ記されていないようなこと)も意識的にしっかりと学ぶはずである。ランマンのサンスクリットリーダー、アナセンのパーリ語リーダーのような名教材が存在する英語圏ならば、当然文語中国語のリーダーもあるはずである。 そう思ってインターネットの洋書通販サイトをいろいろ検索したら、案の定いろいろあるようだ。その中で次の読本を購入してみたらけっこうよかったので紹介しよう。 Classical Chinese (3-Volume Set) : A Basic Reader: Texts, Glossaries, Analyses標題のようにTexts, Glossaries, Analysesの3冊セットになった読解教材であり、米国ニュージャージー州のプリンストン大学で出された、文語中国語を現代中国語または英語で解釈する練習をする読本教材である。説明はすべて現代中国語と英語の両方で記されているので、現代中国語の知識がなくても使用可能である。 Textsは40課構成。最初のほうは短く(それでも50字程度ある)、最後のほうは300字程度あるのでけっこう長い。各ページは見開きで、左ページは本文およびそのローマ字、右ページは現代中国語訳およびそのローマ字、そして英訳がついている。巻末には練習問題もある。 GlossariesはTextsの本文の語彙集。Textsのレッスンごとに、登場する順で、よほど文法的な語以外はすべての字について、現代中国語訳と英訳がついている。 圧巻はAnalyses。例をあげよう(右図。クリックすると拡大)。 一番上の行のみTextsにある原文で、それより下はAnalysesにある解説である。 まずはTextsのすべての文を、まず省略語などを補った形で示し、文法解析を加えている。この解析の説明は後に書くが、単に原文そのままなのではなく、[於]のように補うべき字を補ってある。 ついでこれを現代中国語に訳すのだが、それが3段階になっている。 まずは原文の字をそのまま現代中国語に置き換えた形。「遣→送給、相國→相、書→信、者→的人」のように、逐語的に現代中国語に置き換えてある。 ついで省略語などを補った形に直している。[在〜裡]は上記の[於]をおきかえたものだが、「個」「一封」のような省略語が補われている。 最後に語順を組み替えたり表現を変更したりして、現代中国語としてより自然な形に仕上げてある。 しかもこのそれぞれの段階すべてに英訳がついている。一番最後は自然な英語になっているが、途中の段階は、たとえば「有遣燕國書者→have send-Yan-prime-minister-letter one」のように、意図的に中国語をそのまま英語に置き換えたような形になっている。 このようにして、漢文をいかにして現代中国語、さらに英語に直すかを、順を追って丁寧に執拗に実演して見せている。もちろんGlossariesにはすべての語彙の意味が載っていることはいうまでもないし、Analysesではさらに続けて(ここには載せていないが)ここに登場する「遣」について、用法を詳しく説明するのである。 「漢文を音読で理解すべし」というのなら、ここまでしっかり方法論を示して実演してみせるべし、という見本のようなすぐれた教材である。 さらに、とばした文法解析を見てみよう。 まず「郢人」が主語、「有遣燕相國書者」が述語であり、述語のうちの「有」が動詞で「遣燕相國書者」が目的語になっている。そして「郢人」は主語とはいえ実は場所なので「於」を補うべしというわけである。そして「遣燕相國書」は動詞「遣」+間接目的語「燕相國」+直接目的語「書」であり、さらにそれが名詞「者」を修飾しているというわけである。 「こういう図はどこかで見たことがあるぞ」という妙なデジャヴ感が起こるのだが、実はこれはわれわれ日本人が左のような形で漢文に返り点と送り仮名をつけている「漢文訓読」の英語版なのである。つまりわれわれのやっている訓読とは実は「文法解析」なのであり、一二点や上下点で動詞−目的語構造であることを表し、「相國ニ書ヲ」という送り仮名でここが間接目的語−直接目的語であることを表していたわけである。 前回私は、「音読・訓読併用論」を提唱した。つまり、単に音読しただけでは文法構造が不明確になる部分があり、外国語に訳すことによってはじめてよくわかる部分があるので、訓読を排斥するのではなく、音読と訓読を適宜併用しながら、意味をとるために役に立つ方法なら何でもやるのがよい、と言ったわけである。 この読本は単に音読してそれを現代中国語に置き換えるのでなく、しっかりと各文の文法構造を執拗に明らかにしているわけであるから、まさに「音読・訓読併用」をしているわけである。前回私は「音読・訓読併用」の具体的な方法までは明らかにできなかったが、ここにうってつけのものがあったのだ。 それにしても、長らく中国文化の影響下にあった日本でこのような教材が作れず、かえってアメリカでこういう教材が作れるというのはなんとも奇妙なものである。 さて、現実には句読点のないテキストが多いので、句読点のない白文を読む訓練のできる教材がほしいところであるが、この読本にはすでに句読点は付されていて、その目的では使えない。 高校生用の教科書には「白文→句読点→訓読→口語訳、という順で読解する」などという説明があったりするが、実は正しく訓読するためには訳がわかっていなければならず、正しく訓読する=返り点をつける(つまりどこが主語でどこが動詞で…と解明する)ことができてはじめて文の切れ目がわかるのだから、実はこの→は←なのかもしれない。つまり正しく句読点を打つというのは、読解のスタートではなくてゴールであるとすらいいうるのである。 ゴールであるというのは極端であるが、実際には→でも←でもない、つまり「句読をうつ」「訓読する」「口語訳する」は同時進行である。こうでもない、ああでもないと悩みに悩みながらパズルを解いていくようなものであろうか。 学生時代に句読点のない白文を読む訓練を受けたことがあるが、ともかく当たって砕けろであった。方法論めいたものをあげれば次のようなところであろうか。 人間はまったく未知なるものを理解することはできない。現代の通訳だって仕事の前にはその分野に関する下調べをしっかりやるのであり、でなければ語を聞き取ることができない。そんなわけで事前情報収集が大事である。これから読む本はどういうことがどういうふうに書かれているのか、背景知識を含めて頭にたたきこんでおく。あるいは、すぐに調べることができるような参考書を準備しておく。 その上でどうするかというと、文中に出てくる固有名詞や専門用語を残らず洗い出す。句読点の話ばかりをしてきたが、漢文では語と語の間にスペースをあけたりすることもないし、固有名詞を大文字ではじめたりすることもないので、固有名詞や専門用語をうっかり一般名詞のように思って解読してしまうことがある。「頗聞之」は「頗るこれを聞く」かもしれないが、「廉頗(人名)はこれを聞く」かもしれないのである。また仏典では「般若波羅蜜」などやたらと長い専門用語が出てくるのでこういうのを一字一字区切って読もうとしないよう、あらかじめ洗い出して印をつけておくことである。 「曰」「云」「謂」「言」だのがでてきたらそこからが会話の始まりになるし、曰「××」曰「××」のように連続していたら会話の終わりもわかるので、この手の字が出てきたらカギカッコをくくる。終わりは必ずしも明確ではないので要注意。 「也」「矣」「乎」などが出てきたらたいていそこが文末である。もっとも「也」「乎」は文中で使われることもあるので、文末に来ることの多い字の文中用法は意図的にしっかり覚えておく(たとえば「乎」は「於」と同様に使われることがあるなど)。 「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色」のように、対句や繰り返しの表現を見破ると文末がよくわかるので、繰り返しの構造をいち早く見破ることである。また「AならばB、BならばC、CならばD」のような尻取り式の表現も多いので、同じ字が連続していたらそこで区切れる可能性が高い。「色不異空空不異色」も、「空空」というところで区切れるわけである。もっとも「無無明」なんていうのもあるので要注意。 漢文は英語と同じ五文型なので、どこが動詞になっているのかをいち早く見破るのがポイント。その前はたいてい主語だし、そのあとはたいてい目的語や補語である。もっとも英語と違って主語は必須でなくどんどん省略されるので要注意。 漢文では文法といわずに句法ということが多いが、文法事項をいち早く見破ることが文末を見破るポイントになる。 「事前情報収集」の部分が各分野でまちまちになり、他分野に関する文章の読解が必ずしも役に立つとはいえない(たとえば日本史畑で中国の典籍や版本に関する知識が必要とはいえない)ので、従来はこういうのは各分野でめいめいその分野に即した現実のテキストに体当たりしてきたのであろうが、分野にかかわりなく共通なこともあるのだから、白文を読むための訓練ができるような読本があってもいいような気がする。 日本人は長らく漢文を自国の古典であるかのように思ってきたので、「同文同種」という考え方があり、中国のものは特別に勉強をしなくても理解できるかのように思ってきた。そういういわば「甘え」に対して、主に中国畑の人々から「同文同種ではない」「『手紙』『汽車』など、中国語と日本語で異なる用法は多い」「漢文は外国語として音読せよ」などという批判がなされてきた。こういう批判は至極まっとうなので、最近は「漢文は外国語である」という認識のほうが一般的になってきたようである。 しかし漢文を外国語として「けじめをつけ」たことこそが副作用として「漢文離れ」を招いたのではないだろうか。漢文は外国語なんだから国語の中でやる必要がない。だから国語教育の中で漢文が敬遠されるようになってきたのである。中国人が書いた文はもとより、日本人が書いた漢文までもが敬遠され、日本文学から「日本漢文」がざっくり切り捨てられようとしている。 「漢文は外国語だ」という考え方は、プロとしてしっかり漢文に取り組むためには同文同種という甘えを排して外国語として認識すべし、ということだったのであり、一般的には「同文同種」という甘えが必要だったのではないだろうか。東南アジアのインド文化圏の人たちにとって、サンスクリットやパーリ語の古典はまさに「同文同種」として大切に愛されている。 われわれはせっかく漢字を使っているので、非漢字文明圏の人たちよりもはるかに漢文が勉強しやすいという利点がある。欧米のインド学者はたいてい漢文は読めないが、日本の学者は漢文が読めるので漢訳仏典を読みやすい、というのが日本の学者の利点だったはずである。われわれはもっと漢文の遺産を大切にしていきたいところである。 |