Since 2004/8/30 Last Updated 2007/4/17
サンスクリット(梵語)とは何ぞや? という概説を書けるほど私は学識はないのですが、サンスクリットを扱うサイトを運営している以上、僭越ながらこういう文章を書かざるを得ません。 というのは、世の中にはサンスクリットに対して奇妙な思い入れをしている人が少なからずおり、そういう人が当サイトに対してピントのぼけた期待をなさるということが往々にしてあったからです。たとえば日本の伝統的な梵語研究である悉曇学がおこなうサンスクリットへのアプローチは、言語学的なものもないわけではないですが、ほとんどは文字にこめられた象徴的・宗教的意味を扱う密教的、図像学的なものです。そういうのは当サイトでは当分扱う予定はないのですが、世間の方々の梵語だの梵字だのへの関心は、主にそういうところにあるようで……。 そこで、当サイトが何をしようとしているか、逆に、何をしようとして「いない」かを明らかにするため、恐れながら、あえて、サンスクリットとは何かを、FAQ(よくある質問)集という形でまとめてみたいと思います。 (現在執筆中。随時項目を追加します)。 |
インドの古典語です。梵語とも言います。 言語の名前はふつう国名、地域名、民族名などのあとに「語」をつけて言いますが、サンスクリットという国名、地域名、民族名などがあるわけではありませんし、私を含めて「語」をつけない人がけっこう多いです。 サンスクリットとは「完成された、準備された、洗練された」という意味の過去分詞、形容詞であり「完成された言語、洗練された言語」というわけです。これに対して歴史的にインドに多く存在した民衆語・俗語を総称してプラークリット(自然の、普通の、平凡な、低級の)といいます。自然のままの「平凡」な「低級」のプラークリットに対して、人工的に磨きがかけられた言語がサンスクリットというわけです。 プラークリットのほうは、そういう単一の言語があるわけではなく、あくまで総称です。その中には当サイトでも扱っている「パーリ語」も含まれます。ですから言葉遣いにこだわる人は「プラークリット語」という言い方をせず、単に「プラークリット」というか、せいぜい「プラークリット諸語」という言い方をします(もっとも、ちゃんと意味を知ってさえいれば、便宜的に「プラークリット語」という言い方をするのを否定するものではありません)。 ですからサンスクリットも、もともとの意味や、プラークリットという言葉との対比にこだわるなら、「語」はつけないほうがいいかもしれませんが、サンスクリットのほうは(理論的には完成されてさえいれば何種類あってもいいんですが)一種類しかないので、現実には「サンスクリット語」という言い方もけっこうします。「語」をつけて悪いわけではありません。私はふだんは「語」をつけませんが、「つけるべきでない」と積極的に主張しているわけではありません。 サンスクリットに磨きをかけてきたのは、もちろん多数の先人たちなのですが、紀元前4〜5世紀のパーニニ(イタリア式の丸いパンに具をはさんだサンドイッチは「パニーニ」なので間違えないこと)という文法家が文法書を表して以来、みんながこの文法書にのっとって文を書くようになり、文法が固定化されました。このサンスクリットのことを「古典サンスクリット」といいます。 「古典」というと古そうですが、19世紀、へたをすると20世紀初頭まで、教養人たちが著作に用いていますし、今日でも雑誌やラジオ放送があるらしいので、まるきり古い言語ともいえません。 そして、「古い」ということでいえばもっと古い言語があります。バラモン教の祭式文献であるヴェーダ(古いものなら紀元前12〜13世紀までさかのぼると考えられます)に用いられた言語は、サンスクリットよりもさらに古い特徴を持っています。単にサンスクリットという場合は、ヴェーダ語(ヴェーダの言語)を含む場合もありますが、わざわざ「古典サンスクリット」と言った場合には、ヴェーダ語と区別した「新しいサンスクリット」という意味で言っている可能性が高いです。「古」という言葉にまどわされないようにしましょう。 また、パーニニ以後のサンスクリットは原則として一枚岩、みんな同じ文法で書かれているのですが、『マハーバーラタ』などの叙事詩のサンスクリットにはこの規則を守っていない部分があるので、特に「叙事詩サンスクリット」と区別していうことがあります。また、特に規則を守っていないのが仏典のサンスクリットであり、これも「仏教(徒)混淆サンスクリット」などと区別していったりします。 サンスクリットは「完成された」という名前のせいなのか、また広義のサンスクリットはヴェーダ語も含むので「宗教的な神聖な言葉」ということなのでしょうか、昔から神聖視されることが多い言語です。そういういろいろな神聖視の中に、「造物神であるブラフマーがこの言葉を作った」というものがあります。ブラフマーのことを漢訳では「梵」だの「梵天」だのというので、漢文では「梵語」というわけです。 さすがに現在では死語です。サンスクリットを母語とし、日常生活で用いている人などいるはずがありません。 ……と言いたいところですが、インドの国勢調査で「母語は何ですか?」という調査をすると、「サンスクリット」と答える人が必ずいるのです。それも、次の表のとおり、年々増えているというのにびっくりします。1991年の49736人でも、インドの総人口比からすれば0.01%でしかありませんが、それでもこれだけの数の人が「私の母語はサンスクリットだ」と答えているというわけです。
強弁にせよ何にせよ、「母語はサンスクリットだ」と答える人がいる背景には、サンスクリットが今なお宗教的な文脈では音声言語として用いられており、現代インド諸語の「先祖・根元・母胎」であるとみなされ、インド人がいざ伝統に回帰しようとするときによりどころになる言語であるとされているという事情があります。 ですから現実にはどんなにサンスクリット母語人口が少なくても、インド共和国憲法第8附則で指定されている重要な18言語の一つに数えられ、インドの複雑な言語事情を語る上でよく引き合いに出される「こんなにいっぱいの言語が書かれているインドの紙幣」の中にもちゃんとサンスクリットが入ってしまうというわけです。 現在ではデーヴァナーガリーという文字で書かれるのが普通ですが、歴史的にはさまざまな文字で書かれてきました。後述する「梵字」もその一つです。 具体的な文字の形については、「文法概説」の第3章(3-4など)をご覧ください。 デーヴァナーガリーを含めてインドの文字は原則として音節文字です。つまりローマ字タイプではなく日本のひらがな・カタカナタイプだというわけです。もっとも日本のカナの場合は、同じ子音のカ・キ・ク…の間に、または同じ母音のカ・サ・タ…の間に形の同一性がなんら存在せず、まるきり別の形をしていますが、デーヴァナーガリーでは同じ子音の文字は同一性があります。たとえばを表すためには、を表す文字に記号をつけるだけです。だからローマ字タイプとの合いの子ですね。 しかし合いの子とはいってもやっぱり音節文字なので、「子音+母音」または「母音のみ」という組み合わせを表記するのはラクなのですが、「子音のみ」または「子音+子音」という組み合わせを表記するのがとても苦手で、やっかいな結合子音字というものを用いて表現します。そのくせサンスクリットは、やたら複雑な子音の連続があったりします。デーヴァナーガリーは本当はサンスクリットの表記には向いてないのかもしれません。 そのせいか、学問の世界ではローマ字表記が普通です。インド人はともかく、日本人を含めて欧米人はまずはローマ字で勉強します。でもローマ字→デーヴァナーガリーの変換は機械的、一意的にできてしまうので問題ありません。逆にデーヴァナーガリーのものをローマ字に変換する作業は、語の分かち書きがうまくできない場合があるというデーヴァナーガリーの特性によって、機械的にはできません。サンスクリットの言語的知識に加え、テキストの読みの正確さ・深さが必要になる、けっこう面倒な作業です。だからローマ字のテキストは、ローマナイズした人の読みの結果が反映されているので(それだけに全幅の信頼がおけない場合もありますが)貴重です。大事にしましょう。 時折、「デーヴァナーガリーが難しいからといってサンスクリットをローマ字で書くのは邪道だ。サンスクリットはインドの言語なのだから、インドの文字であるデーヴァナーガリーで書いてこそ正しいのだ」と考える人を見かけますが、そうともいえません。 上述のようにサンスクリットは歴史的にさまざまな文字で書かれてきましたし、地域的にもインド各地の言語の文字で書かれてもいるのです。たとえばベンガル語圏ではベンガル文字で書かれたりもするのです。現にサンスクリットの近代的出版の第一号は、後述のウイリアム・ジョーンズが1792年に出版したカーリダーサの『季節のめぐり』ですが、ベンガル語圏で出版されたためにベンガル文字を使用していました。 インドでは古くから文字が使用されましたが、暑い気候で葉や樹皮などの記録媒体が損傷しやすいせいか、文字に頼らずに記憶と口伝によるテキストの伝承の習慣が強固です。たとえばヴェーダなどはアクセントを含めて一語一句正確に口伝されてきましたし、マハーバーラタやラーマーヤナのような長篇叙事詩も口伝で伝えられてきたのです。それを必要に応じて文字化したので、それでその時代時代、地域地域のさまざまな文字で書かれてきたというわけです。 このように「文字に頼りきらない」習慣の中では、どの文字で書かなければいけないという考えは出てきません。イスラム王朝であるムガル帝国ではアラビア文字でサンスクリットが書かれた例すらあります。そういう中ではローマ字だってりっぱなサンスクリット表記のための文字の一つです。特に学問の世界ではローマ字で書かれたテキストが膨大に出版されているのですからなおさらです。サンスクリットが正確に表記できればどういう文字で書こうとかまわないのです。デーヴァナーガリーなどインド系の文字には語の分かち書きが甘いという弱点を抱えていることを考えれば、むしろサンスクリットはローマ字で書かれるべきだとすらいえるかもしれません。 なお、たとえローマ字を用いていても、それはデーヴァナーガリーなどインド系文字としての扱いなので、辞書ではABC順ではなく、デーヴァナーガリー順に配列するのがふつうです。 上述のようにサンスクリットのことを漢訳では「梵語」といいます。同様にサンスクリットを表記する文字のことを「梵字」といいます。だからデーヴァナーガリーも梵字と言っていいのかもしれませんが、ふつう梵字といったら、デーヴァナーガリーとはちょっと違う、ナナメの筆文字風の書体の文字になります。この文字のことは別名、を悉曇(しったん)あるいは悉曇文字といいます。 具体的な文字の形については、「文法概説」の第3章(3-4など)をご覧ください。 日本ではサンスクリットの研究は「悉曇学」と呼ばれ、密教と不可分の関係で学ばれてきました。梵字はもちろん表音文字であり、意味などないのですが、密教ではさまざまな仏様の象徴として扱います。それから密教では真言(呪文、マントラ)という形でサンスクリットの文章も扱いますが、日本での発音はかなりなまっており、かりに発音が正確であっても、真言というのはその性質上、意味が非常に不明確であり、通常の文法と語彙の知識では意味がうまくとれません。ですから悉曇学は文字学、宗教学、図像学的方面に著しく傾斜し、文法、語彙など言語の他の側面はほとんど研究されてきませんでした。 現在でも梵字に関心のある人のほとんどは、こういう宗教的、図像的側面への興味がほとんどではないでしょうか。 もちろん私はそういう関心を否定するものではないのですが、私には宗教的な心がちっともないのでそういう関心がありません。梵字の形がちょっとおどろおどろしく神秘的なのでもっともらしく見えますが、ローマ字だったら「Aは万物のはじまりで、Bはブッダを表し……」なんて、(あくまで私にとってですが)ばかばかしく感じてしまいます。 そんなわけで当サイトでは、悉曇学関係は当分扱うつもりはないです。 インド・ヨーロッパ語族のインド・イラン語派に属します。ですからヨーロッパの言語とも似ています。この点については、1786年にウイリアム・ジョーンズという人が、サンスクリットがギリシア語やラテン語などと類似した点が多いことを指摘し、これらが共通の言語を祖先としている可能性を示唆して以来、比較言語学という新しい学問が生まれ、そのことが確認されてきた、という有名なエピソードがあります。 英語ではそうでもありませんが、ドイツ語やフランス語やロシア語をやった人は、語形変化がやたら複雑なのに悩まされたことでしょう。名詞に性の区別があるうえ、「〜が、〜の、〜に、〜を」で格変化をする。動詞は主語の人称や数にしたがって語尾が変化し、時制もいろいろあって複雑です。サンスクリットの語形変化はそれよりはるかに複雑です。名詞の性は3つ(男、中、女)、数も3つ(単数、複数に加え、2つを表す両数がある)、格は8つです。動詞は単に原形に語尾をつけるのではなく、原形からいったん語幹という形を作り、それに語尾をつけるという2段がまえ。最初のうちは頭がクラクラしてきます。具体的には当サイトの「変化表」を見てください。 ですが、「文法がしっかりしているから明晰であるということにもなる。文法さえ一通りマスターすれば、後は辞書を引きながら、どんな文章でも解読することができる。きちんとした古典サンスクリットで書かれた文章なら必ずその意味を知ることが可能なのである」(上村勝彦。月刊・言語1982.5「外国語のすすめ−サンスクリット語」)という意見も多くあります。最後の「必ずその意味を知ることが可能」というのは誇張ですが(意味が不明確なサンスクリット文なんていくらでもあります)、文法が複雑なことも利点になるわけです。 文法書に記載されているすべての形が実際の文章に均等に出てくるわけではなく、よく出てくる形とめったに出てこない形とがあります。よく出てくる形だけにしぼれば、そう恐がることもないと思います。 語形変化が厳しいぶん、語順の自由度が高くなっています。たとえば語形変化にとぼしい英語では語順の自由度が小さく、Taro loves Hanako. を Hanako loves Taro. とするとまるきり意味が違います。しかし日本語では「は」「を」などの助詞のおかげで「太郎は花子を愛する」「花子を太郎は愛する」のように語順に自由度があります。同様のことがサンスクリットにも言えるわけです。 一応の傾向としては、動詞があとに来ることが多く、日本語の語順に近いかもしれません。 詩においては韻律をあわせる関係で、かなり語順が自由になり、慣れないと面食らいます。 サンスクリットの一大特徴に、複合語があります。語をどんどん重ねて自由自在に複合語を作ることができます。ですから造語力は無限大、語彙は無尽蔵。「古典語(=古代の言語)だから語彙は少ないはず」と思っていると大きくあてがはずれます。 ただ、複合語は原則として語の原形をそのままくっつけていくので、「AとB」でも「AのB」でも「AというB」でも同じ形になってしまい、上述の「文法が複雑だから明晰」という特徴がなくなってしまいます。上で「意味が不明確なサンスクリット文なんていくらでもある」と書いたのは、主としてこの点に原因があります。 サンスクリットの一大特徴として「連声法(サンディ)」があります。単に語形変化が複雑だというだけでなく、前語末と次語頭の音が互いに影響を及ぼして変化をしてしまうのです。日本語でも「観」(かん)+「音」(おん)→「かんのん」などという音変化があるように、この手の音変化は世界のどんな言語にもあると思いますが、サンスクリットはこれがやたらに多く、しっかり規則化されており、しかも文字は変化した後のほうで書かねばならないというのが特徴です。 同様にこのような音変化が複雑な言語に朝鮮語(韓国語)があります。たとえば「国立」はクク+リプですが、クンニプと発音されます。しかし表記はあくまでもとの「ククリプ」。その文字を読みながら頭の中で瞬時に発音変化させて発声していくわけです。だから朝鮮語は、文章を見て辞書をひくのは(文法的語形変化を除けば)ラクなのですが、それを音読するのが大変。聞き取りはもっと大変で、聞いたとおりに書き取ってもただしい書き取りにならず、語をしっかり覚えていないといけないわけです。 これに対してサンスクリットは、字を音読するのはラク。聞き取りもラク。しかし文章を見て辞書をひくのが大変というわけですね。 もっともこの連声法の規則も、他の文法項目と同様、最初は頭がクラクラしますが、よく出てくるものはきまっているので、実際の文章にアタックしていけば自然と(いやでも)覚えてしまいます。 上述のように、18世紀末にウイリアム・ジョーンズによってサンスクリットとヨーロッパの言語との類似性が指摘されて以来、サンスクリットは言語学者たちの関心を集め、以来約100年間ほどの間に「インド・ヨーロッパ語族」という一大語族の存在が証明されました。また、言語学以外でも、ヴェーダや叙事詩、戯曲などのインドの古典がヨーロッパの学者たちの関心を集め、インドの古典を研究する「インド学」が流行しました。このようなインドへの関心はヨーロッパ各国にありましたが、特にイギリスとドイツにおいて盛んでした。イギリスの場合はインドを植民地化、統治していたという事情がありますが、ヨーロッパ全体とくにドイツにおいてインド学がさかんになったのには理由があります。 この時代すなわち近代の思想潮流の一つに、「キリスト教からの脱却」がありましたが、ヨーロッパ人にとってもキリスト教は実はユダヤ人=セム人の「外来の宗教」であり、そこからの脱却は必然的にヨーロッパ人のルーツ探しに結びつきました。特にこの時期に国民国家をつくりあげていったドイツではなおさら民族のアイデンティティが求められました。そういう中で折よく「はるか東のインドに自分たちの言語と似た言語があるらしい。しかもその言語と文化の担い手は、自らをアーリヤ人=高貴な人々と自称する人たちであった」ということに気づいたわけです。この考え方を極端にするとナチズムにつながるわけですが、ともかくこのような形でインドの言語と古典文化は当時のヨーロッパ人のロマン的な感性をいたく刺激し、それがインド学の隆盛に結びついたのです。ちょうど日本の国学が、仏教を外来の宗教として排斥したのと似ています。いわばインド学はヨーロッパ人の「国学」というわけです。 上述のようにまるっきりの死語ではないとはいえ、基本的には古典語ですから、勉強したからといって現代のインド人とのコミュニケーションに役立つわけではありません。ですからサンスクリットの勉強は、学問、趣味といった非実用的な用途ということになります。もちろんサンスクリット自体を研究するならサンスクリットの勉強は直接に役立つ(というより勉強しなきゃ始まらない)わけですが、ほとんどの人は、何か別の学問分野での必要から勉強するのでしょう。ここではサンスクリットを必要とする主な学問をまとめてみましょう。 具体的な勉強の仕方はビギナーの勉強法を見てください。 やたら複雑な語形変化表を覚えようとしないことです。とても覚えきれないし、覚えようとすれば挫折すること間違いなし。文法書は覚えようとせず、「どこに何が書いてあるか」だけを覚えます。そうしたらともかく実際の文章に飛び込んで、文法書をひきひき格闘することです。そうしていけば自然に変化表を覚えてしまいます。 サンスクリットがいくら文法が複雑だとはいえ、他の言語と同様に人間が読み書き話してきた普通の言語ですから、特に何か特別な技能が必要ということはありません。ただ、どんな言語でもそうですが、語学の習得にはコンキ(根気)、ネンキ(年期)、アンキ(暗記)の3つの「キ」が必要です。即効性を求めず近道をしようとせず、ともかくじっくり取り組むことです。 ただ、英語の知識は必要です。入門段階では日本語で書かれた文法書を使えばいいのですが、役にたつ参考書や辞書のほとんどは英語で書かれています。とはいえ私自身も英語力には自信がありませんが……。 手ごろな英語の辞書は常時手元に置いときましょう。電子辞書があると便利です。 それから私がよくやる手は、スキャナ、OCRソフト、翻訳ソフトを活用することです。辞書の語彙説明程度なら、電子辞書片手に読むのが早いですが、辞書や参考書の序文などのように、英語の比重がかなり高いページなら、1ページまるごとスキャンし、OCRソフトで文書化し、翻訳ソフトにかけてしまいます。まぁ誤訳の山になりますし、運が悪いと英文中にちりばめられたローマ字サンスクリットやデーヴァナーガリーやその他の特殊文字の影響でまともに翻訳してくれないことも多いです。それでも日本語になってくれると速読ができるので、何が書いているのか見当をつけるのには便利です。 |