[サンスクリットページ雑感集・技術情報]

日常辞書とアリバイ辞書

Since 2006/5/5 Last Updated 2006/7/4



  1. アリバイ辞書とは?
     われわれはともすると、辞書の記述を全面的に信用し、「辞書にはこう書いてあるからこれは正しい、あれは間違いだ」という言い方をする。しかし本来、辞書というのは数多くの用例を編集者が自己の基準で要領よくまとめた、二次的な資料にすぎない。編集の段階で取捨選択や伝言ゲームが働き、中には誤りさえ混入することがある。要は「辞書が先で用例が後」なのではなく「用例が先で辞書が後」なのである。
     だから論文を書くときは、(漢籍の例でいえば)「大漢和辞典にはこうある。…」ということを、話のきっかけとして批判的にとりあげるのならともかく、大真面目に大前提としたら失格である。へたをしたら学界から抹殺されかねない。「史記にこうある」「左伝の杜預の注にこうある」などとするのである。……これが以前、まんどぅーかがとある文学部にいたときに、口やかましく指導された事柄である。
     では学者は辞書をひかないかというと、実はこっそりひいている。学者は「史記」だの「左伝の杜預の注」だのを丸暗記していてそこから直接引用しているのではない。実はいろいろな辞書や索引類を利用して探しているのである。が、論文を書くときには元の典拠だけを書いているのだ。実際にお世話になった辞書や索引には非常に失礼な話だが、辞書や索引というのは本来そういう「日陰者」「縁の下の力持ち」なのであり、やむを得ない欠礼というところであろう。
     さて、一般の作家のエッセーや、専門外の学術論文では事情はもう少しゆるやかになる。大漢和辞典は、専門家には間違いの多い辞書として評判が悪いが一般社会では一応それなりの権威があるので、「大漢和辞典にはこうある」とやるのは許されるだろうし、しっかり調べてモノを書いているというよい評判をかちとることができるかもしれない。
     しかし大漢和辞典は全12巻もあって引くのがなかなか大変、おまけに改訂版も旧かな旧字体で説明が古めかしい。となると日常的には別のハンディな辞書を用いたい。だが、いざモノを書くときには「手元のちゃちな辞書にはこうある」だけでは恥ずかしいので、大漢和を引用する。
     これが表題の「日常辞書とアリバイ辞書」ということ。日常的に使うちゃちでハンディなのが「日常辞書」、いざモノを書くときに引きなおすのが「アリバイ辞書」。
     アリバイというのはもちろん「不在者証明」。「私は犯人じゃありません。犯行時刻にはその場所にいませんでしたよ」ということを証明するために「犯行時刻には別のところにいましたからね」ということを示すわけである。同様に「私はモノを書くときにはちゃんと手を尽くして調べてますよ。ちゃちな辞書なんか使ってませんよ」ということを証明するために、しかるべき権威ある辞書を引用し、さも普段からそれを使っているふりをする、そういう意味をこめて「アリバイ辞書」とまんどぅーかは勝手に呼んでいる。
     そして、辞書のこういう二重使用をするということは、裏を返せば、「アリバイ辞書=使いにくい辞書」ということである。使いやすければアリバイもなにもない。それを使えばいいのだから。上であげた大漢和辞典であれば「大きすぎる」「説明が古めかしい」などが使いにくい点というわけである。



  2. モニエルはここが使いにくい
     さて、サンスクリットでアリバイ辞書にあたるものはなんといってもMonier-Williams : A Sanskrit-English Dictionary(以下「モニエル」)。「モニエルにこうある」と書いておけば、アマチュアのサンスクリット愛好家としては、とりあえず「こいつはしっかり調べてモノを書くやつだ」と思ってもらえるはずである。
     そして、上で述べたように、アリバイ辞書だということは使いにくい辞書だということである。
     モニエルの使いにくい点として誰でも気づくのは、「説明が英語」「大きすぎる(ハンディ版は字が小さすぎる)」ということ。梵英辞典なんだから説明が英語なのは仕方ないとして、大きすぎるほうは実は解決の方法がある。モニエルは著作権の切れた辞書なので、インドでは全ページスキャンされてCD−ROM化されている。そういうものを使えばある程度の解決にはなろう。
     で、モニエルの使いにくい点はもっと別のところにある。それは、「必ずしもデーヴァナーガリーの順序どおりになっていない」こと。
     具体的には(もとは「心の中にある」という意味だが「ブッダの」「仏教徒」という意味で使うことが多い)は、の派生語とみなされて、の項の小見出しとして収録されているのである。完全なデーヴァナーガリー順ならばのあるはずのp.737にはなく、その2ページ前のp.735にある。しかも自体はp.733からまるまる2ページ分続いている。となるとこの語を探す際には「p.737にないぞ→じゃの項か?→p.733から目を凝らして2ページ分読み進め→やっと見つかる」という大変な回り道をしなければならない。
     ではすべての派生語がそういう扱いになっているかというとそうではない。たとえば(蛇)は(這う)の派生語なのだが、じゃこんどはかと思ってp.1245を見ると、「はp.1184を見よ」となっていて、結局デーヴァナーガリーでのあるべきところにちゃんとあるというわけである。「p.1184を見よ」のようにページ数を書いてくれてるだけまだ良心的かもしれないが、非常に疲れる。
     こんなふうに派生語がそのまま見出しになっているのか、もとの語根のほうにあるのかが不統一なため、往々にして回り道をするはめになる。小さな辞書ならば多少の回り道をしてもすぐ見つかるのだが、モニエルのようなでっかい辞書の場合は何ページも移動しなければならないことが多く、不便なものである。
     また、モニエルでは(モニエルのみならず、よく使われているもう一つの梵英辞典であるアプテもそうなのだが)前綴り動詞は動詞本体ではなく前綴りのほうで載っている。具体的にはのところを見ても載っておらず、のところを見なければダメである。「そのほうが便利じゃないか」と思うかもしれないが、英語で言えばcome backをcomeではなくbackのほうで引くようなものであり、「むにゃむにゃback」という熟語が英語にたくさんあるのと同様、「むにゃむにゃ」という動詞はサンスクリットにもたくさんあるので、意外に不便である。
     ではこういう点が、まんどぅーかの日常辞書である荻原雲来『梵和大辞典』ではどうなっているかというと、はちゃんとのところにあるし、はちゃんとの中に入っている。またから派生した名詞や形容詞などはちゃんとのほうに載っている。こういう使いやすさで、やっぱりまんどぅーかは荻原梵和を日常辞書にしているわけである。



  3. 一見さんも辞書をひく
     「派生語を語根でひく」という点ですぐに連想されるのがアラビア語の辞書である。ほとんどのアラビア語の辞書は語そのものの字母順ではなく、もとの語根の字母順でひくのである。たとえば(MDRSH。学校)(*)は、(DRS。学ぶ)という動詞の項に載っているのである。だから(M)のところを見ても載っておらず、(D)のところを見なければならない。全然違うところであるからこれはなかなか大変である。それでも慣れてくれば、「(M)というのは動名詞の接頭辞だから抜かせばいい」ということがわかってくるのだが、(BAB。扉、章)が(BWB。分ける)とか、(AAN。時、今)が(AWN)などというのはかなりコツがいる。しかも(AAN)は同形の「来る」という動詞のときは(AWN)でなく(AYN)のほうに載っているし、(AWN)にしろ(AYN)にしろ現実には存在しない仮想的な語形にすぎないのだからなおさらである。
    末尾の文字はアラビア語としてはであり、Hでなく女性形語尾の-at(un)なのだが、ウルドゥー語ではH(発音はaの長音)。この文章は後述のように、ウルドゥー語をやっている人がウルドゥー語の中のアラビア語借用語をアラビア語の辞書で確かめるという趣旨なので、ウルドゥー語の事情から見たアラビア語の形にしている。念のため。
     さて、「ロシア語は辞書が引けたら一人前」のような言葉があるように、語形変化の複雑な言語では、文法をしっかりやらないと辞書すらまともに引けない。まぁサンスクリットもそうだろう。だからアラビア語の辞書のこういう引きにくさというのは、「アラビア語の文法をしっかりやってないからだ」といわれればそれまでなのかもしれない。
     しかし実は、アラビア語の文法を知らない「一見(いちげん)さん」でもアラビア語の辞書を引きたいことはある。ウルドゥー語/ヒンディー語をやっていると、アラビア語からの借用語がいっぱいあるので、ちょっとアラビア語の辞書を引いて確かめたくなることがある。そういう借用語は基本的には語形変化する前の原形であるから、文字とその配列順さえわかれば、文法を知らなくても本来は辞書がひけるはずである。しかしアラビア語の場合は「原形ですら引くのが大変」なので困ってしまうわけだ。



  4. 日常辞書に求めたい機能
     実はアラビア語の辞書でも、入門用の辞書の中には、完全な字母順になっているものがある。白水社の『パスポート初級アラビア語辞典』(以下「パスポート」)がそれだ。またネットではアラビア語−日本語電子辞書データが配付されており、こういうものを使えばラクに語を検索することができる。
     しかしこれらはあくまで「日常辞書」であり、いざモノを書くときには、失礼ながら「パスポートには〜」などと書くのははばかられる。やはりアリバイ辞書として、アラビア語−英語辞典の定番である、Wehr & Cowan : Arabic-English Dictionaryから引用したい。そこでWehr & Cowanで引きなおそうと思うと、これがなかなか難儀するわけである。
     「パスポート」や上述の電子辞書でたとえばをひくと、「語根はだよ」ということが示されていれば便利なのだが、現実にはそうなっていない。ほとんどのアラビア語辞典は語根順配列なのだから、「語根順配列をとる他の辞書ではここに載っている」という情報を載せてくれれば、本当に便利だったのにと悔やまれる。
     日常辞書にはこういうふうに「アリバイ辞書への橋渡し」の機能がほしいところである。たとえば「今昔文字鏡」というさまざまな漢字を用いるためのソフトでは、検索画面で大漢和辞典の何巻何ページの何番の文字というのが表示されるために、大漢和辞典の索引代わりに使うことができ、とても便利である。
     誰かアラビア語の「字母→語根」の検索ができるようなものを作ってくれないだろうか(お前が作れって? 実際、当サイトの「ウルドゥー語/ヒンディー語」ページの語彙集で[A]つまりアラビア語起源語彙となっているものについて、「アラビア語の辞典ではここに載っている」という情報をよっぽど載せようかと思ったのだが、ざっと2400語ほどもあるのでなかなか大変。着手できてない)。
    その後一念発起して、ウルドゥー語/ヒンディー語語彙集のアラビア語起源語彙について、アラビア語の辞書でどこに載っているかを掲載することにした。2006/7/4以降掲載している。



  5. デーヴァナーガリー順は不便?
     ところで、サンスクリットやパーリ語の辞書は、たとえローマ字表記であっても、それは「なんちゃってローマ字」=「デーヴァナーガリーのつもり」なので、デーヴァナーガリーの順序で配列する。そこで慣れないうちはABC順だと思ってひくとひけないので面食らう。慣れてしまえば逆にABC順だととても不便に感じるのであるが、上記のように、辞書というのは一見さんも引く可能性があるのだから、ひょっとしたらこの習慣はよくないのかもしれない。
     国際語学社から出ている山中元『サンスクリット語−日本語単語集』は、デーヴァナーガリー順でなくABC順になっている。当サイトの「サンスクリット語の辞書」ページではこのことを批判している。今でもこの批判は妥当だと思っているが、ひょっとしたらこの批判はサンスクリットの辞書に慣れたがゆえのものであり、一見さんが引くことを考えれば、ABC順にするのも一理あるのかもしれない。ちょうど、アラビア語に慣れた人にはアラビア語辞書の語根順配列こそが望ましいものであるが、一見さんには完全字母順のほうが使いやすいというように。




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