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梵語俗説(4)・渡辺大濤(渡辺大涛)の仏典性典説

Since 2005/2/16 Last Updated 2005/2/16


 高校のときに日本史をやった人は、 江戸時代の思想家・安藤昌益という名を覚えていることだろう。 中学までの日本史では出てこないかもしれない。 18世紀の思想家で、自然との共生、農本主義を説いた『自然真営道』という著作が代表作。 ちょうど同時代のフランスのジャン・ジャック・ルソーの主張とも共通点が多く、 「東洋のルソー」などと呼ばれることもある。 この本は長らく埋もれていたが、明治期の狩野亨吉によって再発見され、 再評価された。 無政府主義的内容を含むラジカルな内容のため、 主にマルクス主義系学者によっていろいろ研究されている。
 その中で、狩野亨吉とともに戦前に安藤昌益の研究と紹介に大きな功績をあげた人として、 渡辺大濤(渡辺大涛。以下「濤」のほうで書く。1879-1957)という人がいる。 代表作は『安藤昌益と自然真営道』で、 もとは木星社書院から1930(昭和5)年に出版された。 この時代にあってラジカルな安藤昌益を紹介するというのはいろいろ苦労があったことだろう。 その後も勁草書房から復刻され(1970)、今でもよく読まれている。

 さて、以上はマクラ。 この渡辺大濤は、教祖然としたところがあり、 霊土教(霊土主義実行団)という怪しげな宗教を作って『霊土教とは何(ど)んなものか』 『万国精神総動員』という本も出している(いずれも1922(大正10)年)。 その一方でサンスクリット研究という趣味があった。 「梵文原典刊行会」という怪しげな団体を主宰し、 1932(昭和7)年に『摩訶般若波羅蜜多心経』という本を出しており、 その後1941(昭和16)年には『解説梵文観音経』という本を名古屋新聞社出版部から出している。
 『摩訶般若波羅蜜多心経』は47ページの薄っぺらい本。 その中心は般若心経(小本)の8種対照である。 すなわち、原文のデーヴァナーガリー表記、悉曇梵字表記、 読みのカタカナ、ローマ字、 渡辺大濤訳、マックス・ミュラー訳、玄奘三蔵漢訳、 玄奘訳からの日本語訳を対照させたものである。 ちょうど、 涌井和『サンスクリット入門 般若心経を梵語原典で読んでみる』などの趣向と同じである。 対照表ページも、 上半分が対照表本体で下半分がその解説になっているが、 涌井さんの本で左が対照表本体、右が解説になっているのにとても似ている。 また、それ以外のページは簡単なサンスクリット文法入門になっている点も、 涌井さんの本に似ている。 実は涌井さんの本には70年前に類書があったのだ。
 渡辺大濤のこの本のタイトルは般若心経の正式な題名とまったく同じであり、 「入門」だの「解説」だの、余計な文字は一切入っていない。 ちょうど、岩波文庫から出ている中村元、紀野一義訳注の本のタイトルが『般若心経・金剛般若経』であって、 他の余計な文字が一切入っていないのと同じで、 渡辺大濤はこの本を、 まさに岩波文庫の般若心経のような、 般若心経のテキストそのものを読むための本として出したのだろう。
 しかし渡辺大濤のこの本は、般若心経をそのまま読むにしては、 かなり風変わりである。 なにしろ解説の冒頭から(p.20。漢字と仮名遣いを適宜現代のものに改めた)、
 いずれの国の神話を見ましても、 始めから終わりまで性の話題で満たされております。 天地の創造までも男女の性的関係と同じ手続き(process)で解釈しようとしています。 バイブルの創世記はアダムとイヴとの露骨な性生活に始まっています。 ギリシアの神話でも日本の神代史でも同様に性生活の描写をしていますが、 インドの神話もご多聞にもれないのであります。 これは現代人よりも比較的正直に性の問題を考えた結果であろうと思います。 昔は今日のように行き詰った経済上の問題はなかったでしょうが、 猛烈な性の衝動には少なからず悩まされたであろう証拠は無数にあります。
と始まり、 実は十二因縁とは「『恋愛、妊娠、誕生、生活、死』すなわち性行為の原因結果を分類したものに過ぎない」(p.22)、 「(五薀の「薀」にあたる) の語根はまたは。 ‘飛ぶ、跳ねる、発生する’などという意味もありますが、 特に‘精液を射出する’という意味に使われるのであります。 すなわち‘精液の射出’によって始めて人間が生ずるので、 五薀の根本であります」(p.30)、 「(「究竟涅槃」にあたる)は 性交の極致を指していうのであります」(p.38)、 「(「羯諦羯諦〜」という呪文は) 性交の初発からclimaxに至るまでのprocessをかくまでにうるわしく賛美したものは古今東西にその類を見ないと思います」(p.41)、 「(「羯諦羯諦〜」の従来の訳は) 原文に満ち溢れている性行為の賛美がほとんど味わわれません」(p.41)、といった具合に、 実は般若心経とはセックスの賛美の経典だ、 という解釈を延々と書き連ねているのである。
 今ならばこういう文章はちっとも刺激的ではないが、 昭和7年当時にはかなり猟奇的なニオイを持った文章だったであろう。 なにしろ、アインシュタインの「相対性理論」という語だって、 この当時は「相対」は「あいたい」と読んで、 「相対死に」すなわち男女の心中という意味で用いられるのが普通だったので、 「男女の情死の理論か」とニヤニヤして受け取られたご時世である。
 いまこのページを見ている読者のみなさんは、 このトンデモ説がどういうところから生じているかはもうお分かりだろう。 サンスクリットを勉強していて困るのが、 一つの語にいろいろな意味があってどれをあてはめて訳していいか迷うことだ。 サンスクリットは歴史が長いので、 一つの語がだんだん違った意味で用いられてくるようになり、 多義語が多くなるのである。 だから仏典に用いられている哲学上の語も、 性の隠語としても用いられる語が少なからずあり、 そういうのをつなぎ合わせていけば、 「般若心経は性交の賛美の経典だ」ということになってしまうというわけである。
 『解説梵文観音経』のほうも同工異曲で、こちらはかなり分厚い本である。 しかも「観世音菩薩普門品」の「普門」を「八紘一宇」と訳すなど、 昭和16年という世相を感じさせる本にもなっている。 上にも書いたように、安藤昌益という「危険思想」を戦前に紹介するという仕事をしていて、 渡辺大濤はかなりにらまれていたはずであり、 それをこういうところで帳尻あわせしていたのだろうか。 トンデモ説の行き着く先はこういうところなのか、 と哀れである。

 なお、般若心経の訳読は、 当サイトでもしております。 リーディングページをどうぞ。


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